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ニッポンの化粧
vol.92

庶民の化粧はひと味違う?
江戸から今の化粧事情

庶民も日常的に化粧をするようになった江戸時代。白粉の白、お歯黒や眉墨の黒、頬紅や口紅の赤と、その基本は変わらないものの、庶民のあいだでは“黒の化粧”に社会的な意味も生まれたようです。江戸時代、そして最近の化粧事情とは……?

歯が白い人は〇〇

 眉を抜く(あるいは剃る)ことやお歯黒が成人の証しであることは前の時代と同様ですが、江戸時代も中期になると、女性たちは結婚に前後してお歯黒をするようになり、眉化粧の意味合いも変化しました。
 身分の高い女性は年齢などに応じて決められたかたちの眉を描いていた一方で、庶民は「歯が白い・眉がある」のは未婚の女性、「お歯黒をしている」のは既婚の女性、「お歯黒・眉を剃っている」のは子持ちの既婚女性と、化粧を見れば立場がある程度わかるようになったそう。身分秩序が重んじられた時代に、化粧は単なるおしゃれではなく、みだしなみ、礼儀のひとつだったといいます。
 当時の結婚適齢期は15歳から18歳くらいでしたが、京都や大坂では未婚でも21、22歳になると歯を黒く染め、江戸でも18、19歳になると世間体のためにお歯黒をすることがあったようです。

現代顔負けのプロモーション

 メイク前のスキンケアが欠かせないのはいつの時代も同じ。江戸時代には、洗顔には油分やビタミンを含んだ糠を用いる、へちまやきゅうりのツルから出てくる水分を化粧水がわりにするなど、自前でスキンケア用品を用意することも多かったようです。
 江戸時代後期に話題を呼んだ市販の化粧品が、「江戸の水」という名の化粧水。滑稽本の売れっ子作家・式亭三馬が経営する小間物店で製造・販売していたもので、“江戸”という都会的なネーミングやおしゃれなガラス製容器、そして自著の登場人物に効果をアピールさせるといったプロモーションが功を奏して大ヒットとなったそう。また、江戸京橋の坂本屋が販売していた「美艶仙女香」という白粉は、浮世絵、草双紙、歌舞伎役者の口上などさまざまなメディアを駆使して商品をPRし、こちらも大人気になったといいます。

化粧も急速に欧米化

 これまで触れてきた日本の伝統化粧は、近代化が急速に進められた明治時代になると“古い化粧”として隅に追いやられます。皇后や皇太后がお歯黒や眉剃りをやめたと宮内省が発表すると、一般の女性も欧米風の化粧品や化粧法に意識を向けるようになりました。
 眉や歯は自然なかたちや色に、白一色が当たり前だった肌メイクにしても、白色ではない色つきの白粉が登場し、自分の素肌の色や季節、照明などに合わせた化粧を試すようになったのです。
 女性の社会進出が進み、「職業婦人」という言葉も生まれた大正時代には、今風に言うと“時短メイク”を指南する婦人誌が登場。携帯できるリップスティックや外出先で化粧直しができるコンパクトも発売され、いつでもどこでも身だしなみが整えられるようになります。

自分らしさの表現へ

 戦後はアメリカ文化の影響を受け、映画や雑誌の中に登場する白人女性のような立体的な顔立ちをいかに再現できるかが、化粧の重要なポイントとなりました。美人の代名詞だった白い肌から小麦色の肌が健康美とされ、日本人の顔の魅力を引き出せるようなナチュラルメイクも流行。女性の社会進出とともに、化粧のあり方も自分らしさが重視されるようになっていきます。
 トレンドが数年おきに変化する中、最近は男性の化粧も復活の兆しを見せています。明治や大正時代は上流階級の女性だけでなく、男性の間でも美顔術、今で言うエステが流行していたようですが、令和の男性はスキンケアのみならず、ファンデーションで肌の色を整えたり、眉や目元のポイントメイクをすることも。特に、新型コロナウイルスの感染拡大でオンラインでの会議が増え、画面の中の自分の顔と向き合う時間が増えたことで、“モニター映え”するメイクにチャレンジする男性も出てきているようです。

美容意識が高まり、男性用化粧品に参入するメーカーも登場するなど、身だしなみのひとつとして男性の化粧も定着し始めています。男らしくあるべき、女らしくあるべきといった概念も今や昔。化粧はもっと自由なものになっていくのかも?

参考文献(順不同)
山村博美『化粧の日本史 美意識の移りかわり』(吉川弘文館)/平松隆円『新装版 化粧にみる日本文化 だれのためによそおうのか?』(水曜社)/ポーラ文化研究所『おしゃれ文化史 飛鳥時代から江戸時代まで』(秀明大学出版会)/ポーラ文化研究所(ホームページ)/日本化粧品工業連合会(同)/日本経済新聞(同) 等

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