
家計の金融資産構成で「現金・預金」の割合が、欧州の約1.5倍、米国と比べると約4倍もある日本。日本人の貯金好きはいつ頃から始まったものなのでしょう? 貯蓄から投資への流れが加速するいま、日本における預貯金の歴史をおさらいしてみましょう。まずは預金と貯金、その言葉の違いから。
預金と貯金、どちらも「お金を預けて貯めること」を意味することに変わりありませんが、厳密には「お金を預ける金融機関」によって使い分けられます。
預金、貯金と呼び方が異なる理由は、それぞれの成り立ちが異なるためです。貯金は1875(明治8)年に始まった郵便貯金制度がルーツ。一方の預金は1873(明治6)年に設立された国立銀行において、企業や商店が事業資金を預ける役割から預金という言葉が使われるようになりました。預金は欧米の銀行が使っていた「Deposit」の訳語で、発案者は渋沢栄一といわれています。
英国のPost Office Savings Banksの制度を参考に、明治初期に導入された郵便貯金制度。英国、ニュージーランド、ベルギーに次いで4番目と世界的に見ても早い導入でした。
いまでこそ日本人は貯金好きというイメージが一般的ですが、当時の庶民は貯蓄に関心がなく、特に東京には「宵越の銭を持つは恥なり」と考える人が多く、貧困や風紀の乱れの一因になっていたとか。郵便貯金制度の導入は、そうした庶民の貯蓄心を養って風紀を改善するとともに、貯蓄されたお金を国家経済の資金にすることが目的でした。
制度開始当初、預け入れの金額は10銭(現在の2000円ほど)以上5銭単位。日雇い労働者の日当が20銭(現在の4000円ほど)の時代で、現在の郵便局にあたる郵便貯金取扱局所は都市部を中心に100局に満たず、貯金者は富裕層が中心で4000人ほどに限られていました。
しかし、1厘(1銭の10分の1)単位の預け入れや、時間や手間がかかっていた払い戻しの即時払いが可能になるなど制度の改良が進み、明治末期に郵便貯金取扱局所が7000局を超えるほど全国に拡大すると、貯金者は1000万人を突破。庶民の間にも普及しました。
明治以降、政府は財政危機や戦争を背景に、貯蓄を奨励する国民的な運動を積極的に展開してきました。日中戦争が本格化した時期には、国家総動員法の一環として国民貯蓄奨励運動を推進。国民貯蓄奨励局、国民貯蓄奨励委員会を設置すると、1938年度の80億円から1945年度の600億円に至るまで毎年の貯蓄目標額を設定し、「ぜいたくは敵だ」というスローガンのもと、国民には職場や学校で結成された貯蓄組合の構成員として各組合で貯金することを求めました。郵便貯金に割増金を付して射幸心をあおり、貯蓄を勧める「弾丸切手(郵便貯金切手)」も登場しました。
太平洋戦争で敗戦国となると、激しいインフレを抑制し、戦後復興の資金を確保するために救国貯蓄運動を展開しました。インフレ収束後も貯蓄運動は推進され、戦後の高度経済成長は国民の高貯蓄がその成長をうながしたといいます。
1952(昭和27)年には貯蓄増強中央委員会(現金融広報中央委員会)が「お金を無駄遣いせずに大切にしよう」と、10月17日を「貯蓄の日」に定めました。その年の初穂を天照大御神に奉納し、五穀豊穣を感謝する神嘗祭(かんなめさい)にちなみ、勤労の「実り」であるお金を大切にして、貯蓄に対する関心を高め、貯蓄の増進を図ることが目的でした。
近年は金融や経済に関する正しい知識や判断力、いわゆる金融リテラシーを高めるための金融教育を推進する動きが活発になっていますが、教育現場では戦前から子どもたちに貯金や倹約の大切さが説かれていました。
明治期に登場したのが「学校貯金」(学童貯金、生徒貯金とも)です。子どもが家業の手伝いなどで得たお金や家族からもらったお金、郵便切手を学校に持参させて、学校を通じて郵便局や銀行に預けるもので、ベルギーをはじめ欧米で実施されていた取り組みを参考に導入されました。
国民貯蓄奨励運動が推進された戦中は、「せんさうちよちく(戦争貯蓄)」や「貯蓄は銃後奉公の途」と習字をさせたり、貯蓄について作文を書かせたりと貯蓄の重要性が指導され、児童・生徒全員を前述の貯蓄組合に加入させ、勤労動員に対して支払われる報償金もできる限り貯蓄に回すように指示されていたといいます。
戦後は大阪市の南大江小学校を先駆けとして、全国の小中学校に「こども銀行」が置かれました。浪費が顕著になっていた子どもたちへの生活指導や金融教育の一環、そして国民的な貯蓄運動の一助にするために始まったもので、実際の銀行や郵便局の協力のもと、支店長や支店長代理、窓口係も子どもたちが務め、窓口業務や帳簿付けのような貯金事務を担当しました。
1950年代半ばのピーク時には全国の小中学校で3万行を数えたこども銀行ですが、高度経済成長による大衆消費社会への変化や相次ぐトラブルなどにより数を減らし、現在は廃止されています。日本人の「貯蓄は美徳」という価値観は、こうした戦中戦後の貯蓄運動によって根付いたところが大きいのかもしれません。
国民的な貯蓄運動を陰から支えていたモノのひとつが貯金箱でしょう。戦後のインフレが収束すると、全国の銀行は貯金箱を景品にして集客を始めました。
人気だったのは、えびすさまや大黒さま、福助や招き猫といった縁起物の貯金箱。明治期に普及し始めた貯金箱も、一切の願いが叶う如意宝珠を形どった「貯金玉」のように縁起の良いものが好まれていたようです。また、前述の学校貯金においても、子どもたち一人ずつの投入口がある小さな下駄箱のような貯金箱を使用する小学校がありました。
銀行はユニークなアイデアの定期預金も生み出して関心を引きました。例えば青森銀行が1949(昭和24)年に始めたのが、くじ付き定期預金「幸運定期」。定期預金1000円につき一口の抽選権が与えられ、特賞10万円を筆頭に賞金のチャンスがあるというもので、預け入れ金額が変わった現在も続く好評商品です。
城南信用金庫が1994(平成6)年にスタートした懸賞金付き定期預金「スーパードリーム」は社会現象となり、他の金融機関も追随するほど話題を呼びました。日経優秀製品・サービス賞の最優秀賞を受賞し、2003(平成15)年には民間金融機関の預金単品商品として初めて預金残高が1兆円の大台を突破しました。
八千代銀行(現きらぼし銀行)が行っていたのが東京六大学野球や東都大学野球を応援する定期預金。優遇金利の適用や観戦チケットのプレゼント、残高の一定割合を各大学野球連盟に寄付する取り組みなどが用意されていました。尼崎信用金庫は阪神タイガースの勝利数に応じた金額の商品券が当たる定期預金を現在も取り扱っています。
少しでも良い金利で預金したいという人に、SBI新生銀行が行っているのが「2週間満期預金」。たった2週間で満期を迎える超短期定期預金で、今では1週間ごとに満期がくる定期預金も各行から登場しています。
大和ネクスト銀行の「サンゴを守る 沖縄県恩納村応援定期預金」は、預け入れ残高に一定割合を乗じた金額を恩納村のサンゴ礁保全活動に寄付できるもの。環境保護以外にも、子どもの医療・自立支援や障がい者スポーツ支援などの応援定期預金が展開されています。
引き出しの度に窓口に必ず足を運ばなければならないのが巣鴨信用金庫の「がんじがらめの安心口座 盗人御用」。本人確認は写真付きの公的書類の提示と登録した「合言葉」で行います。偽造キャッシュカード被害に遭わないため、高齢の預金者の声を受けて開発されたそうです。
預貯金といえば、2024(令和6)年7月、20年ぶりに新紙幣が発行されたことで、自宅に眠っていたタンス貯金にスポットが当てられました。
国内のタンス貯金の残高は数十兆円規模と見積もられています。新紙幣が出回ると旧紙幣が使いづらくなるかもしれないという理由で、自宅に保管している旧紙幣が金融機関に持ち込まれ、消費や投資に回って経済の活性化につながることも期待されています。
とはいえ、新紙幣の流通が始まったからといって、古いお札が使えなくなるわけではありません。聖徳太子の一万円、五千円、千円札や、国会議事堂が描かれた十円札、大黒天が描かれた1885(明治18)年発行の一円札など22種類の紙幣は現役で使用できるため、「古い紙幣は使えなくなるから回収します」といった詐欺にはご注意を。
日本銀行の資金循環統計(2023年末)によると、個人が保有する金融資産は2141兆円。そのうち「現金・預金」は1127兆円と全体の52.6%を占めていますが、株式や投資信託の保有残高も拡大しています。金融リテラシーを高める金融教育に力が入れられているいま、長い時間をかけて築かれてきた日本人の貯蓄志向は大きな転換期を迎えています。
参考文献(順不同)
大村博『Q&Aでサクサクわかる 金融の世界』(ビジネス教育出版社)/吉川卓治『「子ども銀行」の社会史: 学校と貯金の近現代』(世織書房)/落合功『やさしく日本の金融史』(学文社)/落合功『ちょっと深堀り 日本金融史 歴史から金融を考える』(学文社) 等