トップページ > 特集 vol.72 平成改元のトリビア

平成改元のトリビア

私たちになじみ深い元号といえば、昭和か平成になるでしょう。ただ、平成が30年前に始まったとき、どんなエピソードがあったのか忘れてしまった人も少なくないのでは……? 平成の終わりを迎えるいま、平成を中心に改元にまつわるエピソードを振り返ってみました。

明治時代はおみくじだった…?元号の決め方

 まずはじめに、明治以降に元号はどのように決められてきたのかをたどってみましょう。前ページでも触れたとおり、明治以前は天皇の代替わりだけでなく、祥瑞や災異による改元が行われていましたが、1868年の「明治」改元の際、天皇一代に元号をひとつとする一世一元制を採用し、天皇が元号を定めることなどが法制化されました。ちなみに当時は明治天皇が天照大神を祀る内侍所(賢所)で「御籤(おみくじ)」を引いて選択されたと伝えられています。
 昭和の時代、太平洋戦争終戦後に明治時代につくられた旧皇室典範や登極令(皇位継承や即位礼、元号などを規定した旧皇室令)が廃止されると、新しい皇室典範では元号に関して規定されず、元号はその法的根拠を失います。転機となったのは1979年の元号法の成立です。ここで「元号は、政令で定める。」ことと「元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。」ことが定められ、大化以来天皇が決めるものとされてきた元号は政府が政令で定めるものになりました。
 元号法の施行後は「候補名の考案」、「候補名の整理」、「原案の選定」、「新元号の決定」など具体的な元号の選定手続きがまとめられ、平成の改元をはじめ、これから発表される新しい元号も、これらの手続きを踏まえて選定が進められていると考えられています。

新元号の基準、どんな人が決めている?

 元号の候補は、以下のような事項に留意するものとされています。

 また、中国や日本の書物などの「出典」も必要とされているんです。このため、候補名を考案する人は高い識見を有する有識者とされ、選出された若干名の各考案者から2から5つの候補名を提出してもらったうえで検討するのだそう。漢学や東洋史、国文学などが専門の碩学(せきがく)に極秘に依頼するそうですが、その重責からか、平成の改元の際には「荷が重すぎる」と依頼を断る人もいたといいます。

平成改元のウラのアクシデントとは

 元号の候補を考案するうえで、「俗用されているものではない」とは、会社や学校、土地の名前などに使われていないということですが、平成の改元時にはあるアクシデントが起こりました。というのも、岐阜県武儀町(現・関市)には平成と書いて「へなり」と呼ぶ地区があり、1989年1月7日、小渕恵三官房長官(当時)が「新しい元号は平成であります」と発表すると、わずか9戸しかなかった小さな集落に注目が集まり、一躍全国区となったのです。新聞やテレビをはじめ、全国からたくさんの観光客が押し寄せ、平成が終わるいま、再び報道されているのをご覧になった方もいるでしょう。
 それにしても、「俗用されていないもの」とはいえ、町村の合併などで消えてしまった旧地名や、町村を細分した区画(字)をさらに細分した小字(こあざ)まで調べ尽くすのは至難の業。しかも、日本以外で漢字を使用している国の会社名や学校名、地名なども含めていったら、その労力はいかばかりかと感じてしまいますね……。

実は2回目だった?平成の候補案

 新しい元号は「過去に元号として使われていないこと」が大前提ですが、候補として過去に選出されたものが選ばれるケースは少なくなく、出典や勘申者(候補名を提案する者)が明らかな平安時代中期以降の202の年号中、132例と約65%に上るそう。明治は11回目、大正は5回目となる提案が採用されたもので、平成も幕末の「慶応(けいおう)」改元の際、菅原道真の子孫である文章博士(もんじょうはかせ/漢詩文や歴史を担当した大学寮の教官)の高辻修長が考えていたといわれています。
 現在の平成は東洋史を専門とする山本達郎東京大学名誉教授の考案で、ほかの考案者から出された「修文(しゅうぶん)」と「正化(せいか)」も原案として残りました。このうち、「修文」や「正化」だと元号をアルファベットの頭文字を使って表すときに昭和の「S」と同じになってしまうことなどもあり、昭和天皇崩御後に開かれた新元号を決めるための有識者を集めた懇談会では「一番穏やか」や「平易で親しみやすい」とする賛成意見の出た平成が、その後の衆参議長への意見聴取や全閣僚会議、臨時閣議を経て選ばれたといわれています。

改元にまつわる新聞社の戦い

 最後にご紹介するのは、改元を巡る新聞各紙のスクープ合戦について。発表前にいち早く新しい元号を報道しようとするのは、歴史に社名を刻むうえでも大切なことでしょうが、その凌ぎの削り合いが思わぬ結果を招くこともあるようで……。

1年生記者がスクープ!

 1912年の「大正」改元では、朝日新聞で当時、新米の記者だった緒方竹虎(のちに政界に進出)が天皇の諮問機関である枢密院の顧問官から新元号を聞き出し、いち早く号外で速報したとされています。

歴史的な誤報事件も

 大正に続く1926年の「昭和」改元では、歴史に残る誤報事件が起こりました。新元号をいち早く報道しようと、選定を担当する内閣内政審議室長のもとに各紙の記者が詰めかける中、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の記者が「『光文』に内定した」という情報を入手し、天皇が崩御した直後に「次の元号は光文」と号外を出したのです。しかし、数時間後に当時の宮内省から発表されたのは「昭和」。この歴史的誤報で社長が辞意を表明する事態になったそう。「光文がすっぱ抜かれたから昭和になったのではないか」という噂も流れましたが、「光文」をはじめとするいくつかの案は早い段階で候補から除外されていたというのが真相のようです。

平成の改元でも!?

 昭和から平成への改元では、毎日新聞の記者が正式発表の約35分前に情報を知ったものの、そのスクープを広く人々に伝えることができなかったというエピソードもあります。これは、1989年1月7日、天皇が崩御した午前6時33分から約7時間半後の午後2時ごろ、同紙の政治部記者が政府関係者から極秘に入手した手書きのメモに「平成」と書いてあったというもの。しかし、徹底的な報道管制を敷いていた政府は当時、新元号が事前に漏れた場合はただちに元号を取り替えるとしていたため、編集局内では号外を出すか否かで激論となったそう。その後、午後2時半過ぎにある閣僚から確証を得られたものの、数分後の2時36分には新元号が発表されたといいます。


平成の改元では、朝日新聞でも政治部記者らが元号担当として、事前にコンピュータを駆使して予測を行っていたとも。新しい元号となった時代には、一体どんなエピソードが語られるのでしょう。いずれにしても、新たな元号、時代の幕開けはもうすぐです。

参考文献(順不同)
所功 編著『日本年号史大事典 普及版』(雄山閣)/所功、久禮旦雄、吉野健一『元号 年号から読み解く日本史』(文藝春秋)/歴史と元号研究会『日本の元号』(新人物往来社)/朝日新聞(ホームページ)/毎日新聞(同)/日本記者クラブ(同)/NHK(同)/文春オンライン(同) 等

  • 1
  • 2

Traceおすすめの関連商品

  • 元号―年号から読み解く日本史
  • 元号と天皇から日本史を読む方法―「大化」から「平成」まで驚きの史実を発掘!
  • 「おむすび」は神さまとの縁結び!?暮らしの中にある「宮中ことば」―雅な表現から知る言葉に込められた想い
  • 『名探偵コナン KODOMO時事ワード〈2019〉』
紀伊國屋書店ウェブストア

紀伊國屋書店ウェブストア

和書や雑誌、CD/DVDの通販はもちろん、オンライン購入後すぐに読める電子書籍も豊富に品揃え。無料でダウンロードできる紀伊國屋書店の電子書籍サービス「Kinoppy(キノッピー)」を利用すれば、購入した電子書籍をパソコンやタブレット、スマートフォンなどさまざまなデバイスで楽しめます。購入金額に応じて、1ポイント1円から使える紀伊國屋ウェブストアのポイントも貯まります。

倍増TOWN経由で紀伊國屋書店ウェブストアをご利用いただくとNTTグループカードご利用ポイントが4倍!(2019/3/20現在)

※倍増TOWNのご利用にはMyLinkへのログインが必要です。 ※一部ポイント加算の対象外となる商品・ご注文がございます。詳しくはこちら

※別途送料がかかる場合がございます。 ※掲載の商品は、在庫がない場合や予告なく販売終了する場合がございます。あらかじめご了承ください。 ※価格は変動の可能性がございます。最新の価格は商品ページでお確かめください。 ※商品の色はご覧頂いている環境によって実際の色とは異なる場合がございます。

PageTop