約1300年にわたり、日本で使われてきた「元号」。歴史の授業で「大化の改新」や「建武の新政」、「応仁の乱」と歴史的な出来事と元号を一緒に覚えるように、元号は日本の歴史、人々の生活とも密接に関わってきました。新しい元号の発表(2019年4月1日)を目前に控えたいま、改めて元号について掘り下げてみたいと思います。
※本記事は2019年3月20日に公開され、同年1月末までの情報をもとにまとめています。
※記事中の元号は基本的に、明治以前の国内の元号にふりがなを付けています。

元号の始まりは、紀元前113年頃に古代中国・前漢の武帝が即位の翌年(紀元前140年)を「建元」元年と定めたのが始まりといわれています。
それまでも、国を統治する天子が即位後に年を改めることは行われていて、武帝の時代も「初元、二元、三元……」と数年ごとに改元されていましたが、有司(役人)から「数ではなく天瑞(めでたいしるし)をもって命じてはどうか」と進言があり、一元は建元、二元は元光と、統治を始めた年にさかのぼって改称されたのだそう。その後、20世紀初めの清朝まで約2000年にわたり、中国の王朝では元号が使われました。もちろんそれは中国国内だけでなく、東アジアの先進国である中国文化の影響を受けていた現在のベトナムや朝鮮半島に広がり、やがて日本でも取り入れられるようになったのです。

日本初の元号は、孝徳天皇の即位元年である645年に定められた「大化(たいか)」とされています。それ以前の日本では、4~5世紀頃に中国から伝わった漢籍や暦本をもとに干支が使われ、外交上は中国の元号を使用していたようです。
中国の元号の使用は、本格的な国家建設を目指して独自の元号を建てた大化以降もしばらく続きますが、文武天皇が697年に即位し、「大宝(たいほう)」元年(701年)に日本初の律令法典(大宝律令)が完成すると、官も民も文書で年次を記す場合はすべて日本の元号を使わなければならないと定められ、ここで初めて中国とは異なる年代表記が制度化されました。
かつてベトナムで栄えた王朝では、日本と同じように漢字2文字、ときには4文字からなる独自の元号が使われていました。その文化は中国と同じように王朝が代わっても続き、19世紀後半、フランス領インドシナに編入されたあとも阮朝(げんちょう)に引き継がれますが、1945年のホー・チ・ミンによる革命でベトナム民主共和国が樹立されると途絶えてしまいます。
一方、朝鮮半島では日本よりも早く、三国時代から独自の元号が使われていたといいます。南部の新羅王国では536年から551年の「建元」をはじめ、7つの元号が使われていたことが歴史書「三国史記」に記録されているそう。ほかにも、7世紀から10世紀に中国東北地方からロシア沿海地方、朝鮮半島北部にかけて存在した渤海国(ぼっかいこく)でも独自の元号が使われていたようです。いまでは日本だけの文化となってしまった元号も、古くは中国文化の影響を色濃く受けた周辺の国々で広く取り入れられていたんですね。

元号が変わる「改元」。いまでこそ一世一元制、つまり、天皇一代に元号はひとつとされていますが、明治以前には天皇の代替わりのほかにも、祥瑞(しょうずい/めでたい、喜ばしい兆し)が現れたときや、地震や疫病、京中やその周辺での大火といった災異による改元がありました。災異改元の始まりは、醍醐天皇による923年の「延長(えんちょう)」改元です。これは、長雨と疫病が原因とされています。
989年、一条天皇による「永祚(えいそ)」改元は、地球に約76年ぶりに接近したハレー彗星の目撃や地震に起因する改元とされています。時代が下って江戸時代には、ある噂がきっかけで改元に至ったケースもありました。
後桜町天皇の即位により1764年から「明和(めいわ)」という元号が使われていましたが、この元号が使われ始めると「明和9年(めいわくねん)は『迷惑年』に当たる」という噂が流れるようになり、実際に明和9年に多数に死傷者を出す目黒行人坂の大火が発生してしまったのです。これがきっかけで幕府側から改元が申し入れられ、1772年、「安永(あんえい)」に改元されたといわれています。
さて、ここで1300年以上続いてきた日本の元号について、数字をもとにその特徴を見ていきましょう。
初の元号「大化」から「平成」まで、日本で使われた元号の数は247に上ります。元号のルーツである中国は王朝の交代が著しく、異民族による支配などもあったことから正確な数を算出するのは難しいようですが、前漢から清朝までの間に正統な王朝では354、それ以外も含めれば500もの元号が生まれたのだそう。
日本の元号の中には、1年ほどで終わってしまったものもありました。たとえば「天応(てんおう)」は、伊勢斎宮に“美雲”が出現したことを祥瑞として781年に改元されたもので、元日に改元が行われた唯一の例ですが、光仁天皇が病を理由に息子の桓武天皇に譲位したため、長く続くことはありませんでした。
一方、明治以前でもっとも長く続いたのが「応永(おうえい)」の35年(1394~1428年)。30年以上続いたのはこの一例だけで、20年以上続いたのも「天平(てんぴょう/21年)」、「延喜(えんぎ/23年)」、「延暦(えんりゃく/25年)」、「正平(しょうへい/25年)」、「天文(てんぶん/24年)」、「天正(てんしょう/20年)」、「慶長(けいちょう/20年)」、「寛永(かんえい/21年)」、「享保(きょうほう/21年)」の9例だけなんです。
72文字とは、これまでの元号で使われた漢字の総数のこと。そのうち、次の文字は10回以上使われているのだとか。
永:29回 元・天:27回 治:21回 応:20回 正・長・文・和:19回 安:17回 延・暦:16回 寛・徳・保:15回 承:14回 仁:13回 嘉・平:12回 康・宝:10回
元号と聞くと漢字2文字が当たり前と思ってしまいますが、奈良時代、天平のあとには4文字の元号が続いたことがありました。749年から770年の間に、「天平感宝(てんぴょうかんぽう)」、「天平勝宝(てんぴょうしょうほう)」、「天平宝字(てんぴょうほうじ)」、「天平神護(てんぴょうじんご)」、「神護景雲(じんごけいうん)」と5回も4文字の元号が登場したのです。
これは、聖武天皇の皇后・光明子が、唐の時代に中国史上唯一の女帝として周朝(武周)を建てた則天武后が用いた4文字の元号にならったものといわれています。神護景雲のあと、「宝亀(ほうき)」に改元(770年)されてからは日本の元号は2文字で定着しましたが、中国では3文字(始建国)や6文字(天授礼法延祚)の例もあるのだそう。
ルーツである中国とも異なる、独自の文化となった日本の元号。247の元号のうち、重複するものがひとつもないというのも特徴なんです(中国では「建武」、「太平」、「永興」、「太和」が重複して使われているとか)。次ページでは、平成を中心に元号にまつわるトリビアをご紹介します。