
私たちは一生の約3分の1を寝て過ごしているといわれています。人生の多くの時間を占める睡眠時間で、とても身近なものといえば“枕”。今月の「Trace」は、毎日の安眠のために欠かせない枕のルーツを辿ってみました。
動物の中で唯一、枕を使って眠る私たち。人間がいつ頃から枕を使って眠るようになったのかは定かではありませんが、横になるとき自然と頭を支えるものを探してしまうように、古代の人々も身の回りにあった草木や石を利用するようになったのでしょう。死者を埋葬する習慣を持っていたネアンデルタール人の墓地からは、まるで枕を使っているかのように、頭の下に石が置かれた遺骨が見つかっているそう。
古代エジプトの遺跡からは、首を支えるように加工された雪花石膏やガラス、象牙製の枕が、さまざまな埋葬品とともに発見されています。日本でも古代人がつくった石枕が見つかっていますが、その多くは古墳から出てきた葬送用のもの。生きている人々が使っていたとしてもおかしくありませんが、柔らかな枕に慣れ親しんだ私たちの感覚からすると、寝心地はよろしくなさそう……?
「枕」という言葉が初めて使われた文献は『古事記』。伊邪那美命(イザナミノミコト)が火の神を産んだために黄泉国に去った際、その死を悲しんだ伊邪那岐命(イザナギノミコト)が「御枕方(みまくらべ)」に腹ばいになって泣いたと記されています。
枕(マクラ)の語源については諸説あるようですが、クラを「蔵・倉」と捉えて、「魂(タマ)の倉(クラ)=タマクラ」と呼んでいたものが「マクラ」と縮まったという説も。枕を蹴ったり投げたり、またいだり踏んだりしてはいけないという俗信は各地にありますが、枕は単なる寝具ではなく、人の心、魂を宿すものと考えられていたことの表れなのかもしれません。
枕を北側に向けて眠る“北枕”も、縁起が悪いと忌み嫌われるもの。お釈迦様が涅槃の際、右脇を下にして臥し、頭を北側に向け、顔を西側に向いて入滅したことにならって、亡くなった人を寝かせるときの作法ですが、死者の頭を北側に向ける習慣は縄文・弥生時代から比較的多く見られていたようです。とはいえ、“頭寒足熱”なんて言葉もありますし、とある地方の古い俗信には、婚礼の夜には夫婦の枕を北枕にするという話もあるのだとか。
昔ながらの日本の枕といえば、蕎麦殻(そばがら)や籾殻(もみがら)を詰めたものではないでしょうか。布などで細長い袋をつくり、その中に詰め物をして両端を括った枕は“括り枕”と呼ばれ、奈良・平安時代には使われていたといいます。
現存する括り枕の中で古いものの一つ、岩手県平泉の中尊寺金色堂に納められている藤原氏の枕には、絹綿やヒエが詰められていました。ヒエは凶作に備えて古くから栽培されていた救荒作物。貴重な食べ物を詰め物にするのを気兼ねしてか、次第に蕎麦殻や籾殻が詰め物に使われるようになったと考えられています。江戸時代、安眠できると評判だった小豆の枕も、大切な食料を使っているためにこっそりと用いられていたとか。
今でこそウレタンフォームやプラスチック製のパイプなどがスタンダードですが、川の砂、碁石や小石、ハーブや薬草、ドライフラワーを入れたものなど、ひと口に詰め物といってもさまざまなバリエーションがあるんです。
大正時代の初め頃まで一般的だったのが、木でつくられた箱型の枕の胴部分に小さな括り枕を乗せ、鬢(びん)付け油で汚れないように枕紙を重ねた“箱枕”です。古くから使われていた木枕(木材を四角や丸に加工したり、丸みやへこみをつけたりした枕)と括り枕を掛け合わせたもので、鎌倉時代にはすでに使われていたそう。
技巧的な結髪やちょんまげが流行する江戸時代には、髪型が崩れないように首筋を支える箱枕が主流となり、括り枕は“坊主枕”と呼ばれて、まげのないお坊さんや儒者などに用いられていました。
そんな枕が大きく変わるきっかけが、1871(明治4)年に発せられた断髪令。ちょんまげを切り落とし、散切り頭や洋髪が主流となると、男性たち、そして女性たちからも坊主枕が見直され、現在のような平型の枕につながっていくのです。
横向きで眠るのが好きだからと、抱き枕を愛用している人も少なくないでしょう。抱き枕のルーツは意外と古く、3〜6世紀の六朝(りくちょう)時代にさかのぼります。中国南方の暑い地域では、竹や籐で編まれた、風通しが良くほどよい弾力のある枕を抱いて、寝苦しい夜に涼をとっていたのだそう。こうした抱き枕は竹夫人、竹姫、竹婦、竹奴、抱籠などと呼ばれ、マレーシアやインドネシア、インドなどでも利用されていました。
沖縄では暑くても裸になることが許されていなかった上流階級の人々が、素肌の上に枕を抱き、着物で包んで寝ていたようで、江戸時代には長崎の唐人町を経由して江戸にも入ってきますが、あまり普及しなかったとも。一方で、普通の枕のサイズに竹や籐を編んだ籠枕は明治から大正時代にかけて、夏に欠かせない昼寝用の枕として流行しました。
昭和の初め頃まで、枕の多くは使わなくなった布切れや古着に蕎麦殻や籾殻などを用いて、各家庭で工夫を凝らして手作りすることが珍しくありませんでしたが、木枕や箱枕のように、家庭でつくるには材料や技術が必要な枕を商う“枕売り”も鎌倉時代にはすでに登場していたそうです。
今では既製品を買い求めることが当たり前になったものの、慢性的な睡眠不足が借金のように積み重なる“睡眠負債”が取り沙汰される中、一人ひとりの体形やカウンセリング結果をもとに最適な枕をオーダーメイドできるサービスへのニーズも高まっているようです。
また、テクノロジーを活用して睡眠の質を向上させる“スリープテック”に参入する企業も相次いでいるよう。脳波を計測して深い睡眠時間を保ってくれるヘッドバンド型機器や、内蔵のセンサーで睡眠時の姿勢を測定し、エアコンや照明を制御してくれるマットレスなども登場しています。歴史を塗り替えるようなアイデア枕も登場するかも?
国内におけるスリープテックの市場規模は1.2兆円、潜在市場は3〜5兆円といわれ、世界的にも2024年には10兆円以上に拡大すると予測されています。枕をはじめとした寝具の進化で、夢も大きく膨らみそうですね。
参考文献(順不同)
矢野憲一『ものと人間の文化史81 枕』(法政大学出版局)/清水靖彦『日本枕考』(勁草書房)/白崎繁仁『枕の博物誌』(北海道新聞社)/小川光暘『雄山閣アーカイブス 寝所と寝具』(雄山閣) 等