
その誕生以来、新たな漢字が生み出されてきた一方で、過去には漢字を廃止しようとする運動が熱を帯びたこともありました……。知られざる日本語、そして漢字のピンチとは?
中国や朝鮮から伝来した漢字をもとに、古くから日本人は独自の漢字も生み出してきました。これを「国字」と呼んでいます。
例えば、日本酒づくりで使われる「糀(こうじ)」「酛(もと)」、日本刀の「錵(にえ)」「鎺(はばき)」など日本固有の文化にかかわるものや、中国に該当する漢字がすでにあるものの、あえてつくりだしたような「畑(はたけ)」も国字のひとつ。また、西洋文明が入ってくると「米(メートル)」「糎(センチメートル)」「竰(センチリットル)」なども生まれました。
扁桃腺やリンパ腺などで使われる「腺(せん)」も日本発の漢字です。江戸時代にオランダから伝わってきた西洋医学の専門用語を的確に訳そうと蘭学者が生み出した国字で、中国や韓国にも“逆輸入”されたそう。なお、中国では「なまず」を意味する「鮎」が日本では「あゆ」と読むように、本来の漢字の意味とは異なる日本独自の意味を加えることを「国訓」といいます。
新たな漢字が生まれてきた一方で、漢字は度々、その存在を脅かされてきました。有名なところでは、明治時代に日本に郵便の仕組みを築き、日本近代郵便の父と呼ばれる前島密が、1866年に第15代将軍の徳川慶喜に建白した「漢字御廃止之議」が挙げられます。
これは、国民のあいだに学問を広めるためには難しい漢字の使用をやめるべきだという趣旨の建議書で、前島が青年時代、江戸土産の絵草紙と三字経を甥に教えてみたところ、漢字教育の難しさを痛感したことから思い立ったとか。漢字、漢文を廃止して仮名表記の推奨を申し立てましたが、受け入れられることはありませんでした。
GHQの漢字廃止論は空振りに終わったものの、漢字削減論は1970年代まで根強くありました。そんな潮流を変えたのが、ワープロの登場です。
日本初の日本語ワードプロセッサ「JW-10」が発売されたのは1979年2月のこと。英文タイプライタのように早く文章が打てる機械がほしいという毎日新聞社からの要望で、1971年に東京芝浦電気(現東芝)の総合研究所で開発がスタートしました。当時、日本語入力には数千の漢字を並べた和文タイプライタが使われていましたが、専門的な訓練を受けたタイピストの手にかかっても、手書きより早く日本語を入力することは困難で、当時は英文のように手早く簡単に日本語を処理することは不可能だと考えられていたようです。
研究メンバーは当初、縦横合わせて2500の漢字と仮名の盤を並べて、金属ペンでタッチすると文字が入力されるタブレット式の装置を開発しますが、入力速度に限界があったため、コンピュータによる言語処理の先進的な研究を取り入れます。独自の辞書をつくってコンピュータにインプットし、仮名文字だけを打てば漢字に変換できる「仮名漢字変換システム」の開発が進められ、変換候補の最適化も進められました。
実用レベルとなったのは開発から約7年後。一般単語4万語、固有名詞8000語を記憶したJW-10は630万円という価格ながら大反響を呼び、他社の参入で価格が50万円台になった1982年頃から企業への普及が一気に進みました。
日本語ワープロの登場で漢字削減論は下火になったうえ、仮名漢字変換技術で開発された言語処理技術は中国や台湾、韓国などにも波及。各国が独自の開発を行うことで、日本語と同じような簡単な入力が可能となるなど、漢字文化圏の電子化普及にも大きく貢献したのです。
最後に、漢字の故郷である中国のお話を。中国本土やマレーシア、シンガポールなどで現在使われているのは、みなさんご存じの簡体字です。これは古くから中国で使われてきた漢字を簡略化したもので、1950年代から整理が進められています。
台湾や香港、マカオなどの一部は従来の繁体字を使っていますが、実は中国でも簡体字導入以前、漢字を廃止しようとする文字改革がありました。20世紀初頭の清王朝の崩壊と列強による植民地化という国難の中で出現した漢字廃止論は、漢字を廃止しなければ教育を普及させることができないと、中国語のローマ字化やラテン文字化を主張するものだったといいます。
国民党、共産党で政治的イデオロギーの対立となった文字改革は、のちの文化大革命による混乱で終焉を迎えますが、そのあいだには日本語の仮名のような表音文字を取り入れるのはどうかといった議論も繰り広げられたとか……。今では漢字は国家通用語言文字法の制定によって、中国における通用文字(公用文字)として法的な立場を得ています。
日本語を学んでいる外国人が、「生」という漢字の読み方が多種多様すぎると驚くTwitterの投稿が一時話題になりました。もし日本語がローマ字表記となっていたら、英語でのコミュニケーションは円滑になったかもしれませんが、漢字や片仮名、平仮名を駆使するからこそ生まれる日本独自の考え方や文化、美的感覚は失われてしまったかもしれません。スマホやパソコンの普及で漢字離れは進んでいるとしても、漢字やそれを使うことで生まれる日本語の豊かさは忘れたくはないですね。
参考文献(順不同)
笹原宏之『日本の漢字』(岩波書店)/同『漢字の歴史 古くて新しい文字の話』(筑摩書房)/同『方言漢字』(KADOKAWA)/大島正二『漢字伝来』(岩波書店)/専修大学図書館編『日本語の風景 文字はどのように書かれてきたのか』(専修大学出版局)/レトロ商品研究所編『国産はじめて物語 世界に挑戦した日本製品の誕生秘話』(ナナ・コーポレート・コミュニケーション)/『日経おとなのOFF 2013年10月号』(日経BP)/国立国語研究所(ホームページ) 等