空前のフィギュアスケートブームに沸く日本。国内では5年ぶりの開催となる世界選手権が控えていますが、華麗でダイナミックなこの競技はいったいいつ生まれたのでしょう? 今回の「Trace」ではフィギュアスケートの世界を紐解いてみます!

ヨーロッパ各地に点在する石器時代の遺跡から、マンモス、シカ、トナカイ、馬などの骨をヒモで結びつけた“スケート靴”が発見されているように、人々は昔から身近な道具を使って氷上を滑っていました。凍った河川や池、湖の上を移動するための手段だったスケートがレジャーの道具になるのは中世のこと。特に、運河が発達していたオランダでは、凍った運河をアイスリンク代わりにしてさまざまな階層の人がスケートに興じていたといいます。
18世紀中頃にスコットランドのエジンバラで世界初のスケートクラブ、エジンバラ・スケートクラブが誕生すると、片足を氷の上につけてもう片方の足を後ろに伸ばし、両手を胸の前で組んで大きなS字を描くように滑走する「ダッチロール」といったテクニックが流行します。やがてスケートは、貴族社会を中心に芸術性や表現力を競うフィギュアスケートと、目的地に向かってできるだけ早く移動することを追求し、タイムや着順を競うスピードスケートに分かれていきました。

フィギュアスケートの世界で欠かせないものといえば“音楽”が挙げられますよね。選手は単に曲のリズムに合わせて動くのではなく、使用する曲の音楽性を理解し、表現として昇華させることが求められるのが、ほかのスポーツにはなかなか見られない面白さでもあります。このスケートと音楽の融合を考案したのが、近代フィギュアスケートの父といわれるジャクソン・ヘインズです。
ニューヨーク出身のバレエダンサーだったヘインズは、1863年に非公式大会ながらスケートの全米チャンピオンにもなったほどの選手。そんな彼がヨーロッパへ渡った際に出会ったのが、ウィーンを中心に流行していた“ウィンナ・ワルツ”でした。当時最先端の社交ダンスやバレエの世界表現を氷上に持ち込み、その可能性を切り開いたヘインズは、ヨーロッパ各地に学校を設立して独自のスケート普及に努めます。こうした試みが、現在のフリースケーティングの原型となったのです。その後、1882年にウィーンで初の大規模な国際大会が開催され、1892年にはヨーロッパ13カ国の代表が集まった国際スケート連盟(ISU/International Skating Union)がオランダで誕生。現代のフィギュアスケートの幕が開けます。

フィギュアスケート(Figure Skate)の“Figure”とは「図形」を意味する英単語。「図形を滑る競技」と考えると、ジャンプやスピンといった華麗でダイナミックな競技のイメージとはあまりそぐわないように感じてしまいますが、このネーミングはいまでは行われなくなってしまったある種目がルーツなんです。
1896年、男子シングルのみで始まった世界選手権は、フリースケーティングとコンパルソリーという2種目で争われていました。コンパルソリーとはスケートのエッジで氷上にいかに正確な図形を描くかを競う種目で、かねてから図形を描く技術に重点を置いていたイギリスが国際スケート連盟設立時にその重要性を主張したことから、競技自体の名前も“Figure Skate”と定められたのだそう。コンパルソリーは長年、フィギュアスケートの基盤となる種目でしたが、見た目にも地味で観客数も少なかったことから、スポーツの商業化が進んだ1970~80年代には点数全体に占める割合が減少。1990年の世界選手権を最後に廃止となり、現代のようにフリースケーティングとショートプログラムで争われる形式となりました。
フィギュアスケートの世界では2002~03年シーズンまで、6点満点で採点する方式を採用していましたが、実はこの採点形式もコンパルソリーの名残だといわれています。コンパルソリーは右足3回、左足3回で計6回、同じ図形を描く種目で、審判は氷上に描かれた6本のトレースを1本につき1点満点、合計6点満点で採点していたことから6点満点法が誕生したそう。
さて、日本ではフィギュアスケートはどんなかたちで普及したのでしょう。日本でいつスケートが始まったかには諸説ありますが、イギリスの動物学者で、津軽海峡に動物分布上の一境界線(ブラキストン線)があると発表したトーマス・ブラキストンが1861年に函館の池で滑ったのが初めてという説もあります。明治時代に入ると、外国から来日した宣教師や教師がスケート靴を持参することはあったものの、庶民にとっては舶来の高級品。そのため下駄や竹草履を改良したお手製のスケート靴が流行し、北海道や東北地方をはじめ、長野の諏訪湖や神戸の六甲山でもスケートが楽しまれるようになったそう。

日本初のスケート組織である日本スケート会が誕生したのは1920年のこと。それから16年後、ガルミッシュ=パルテンキルヘン冬季五輪には5人の日本人選手が出場し、日本女子代表第1号だった稲田悦子がわずか12歳ながら10位と健闘して話題になりました。この五輪では、身長127cmと小柄だった稲田を開会式で見たアドルフ・ヒトラーが「あの子どもはいったい何をしに来たのか?」と発言したというエピソードも残されているんです。稲田は帰国後、フィギュアブームの火付け役となり、現役引退後も第一線のコーチとして活躍しました。

終戦、そして高度経済成長を経て、1960~70年代にはスケートは大衆の娯楽として人気を集めました。そして戦争のために開催が見送られた札幌冬季五輪が1972年に行われると、「氷上の妖精」「札幌の恋人」と称されたアメリカのジャネット・リンがフィギュアブームを巻き起こします。5年後の1977年には東京・代々木で世界選手権が開催、日本初となった国際大会では佐野稔が3位入賞を果たし、日本人選手が国際大会に初出場してから半世紀近い時を経て初めて表彰台に上りました。

1979年にNHK杯がスタートし、1980年代に入ると世界選手権でも上位入賞する選手が出てきます。そして、たぐいまれなパフォーマンスで世界の伝説となったのが伊藤みどりです。伊藤は1988年、カルガリー冬季五輪のフリーで5種類の3回転ジャンプを計7回決め、当時としては日本人の五輪記録最高タイとなる5位入賞を果たします。このオリンピックから9ヵ月後の愛知県選手権大会では女子選手として史上初の3回転(トリプル)アクセルを決め、翌年の世界選手権でも成功してアジア人で初めて金メダルを手に。そして、1992年、アルベールビル冬季五輪では日本初の銀メダルを獲得します。国際大会で3回転アクセルを成功させた選手は伊藤以後、10年間は現れなかったといいますから、どれだけ時代を先取りしていたかがわかりますね。

1994年、千葉・幕張で開催された世界選手権で伊藤みどり以来の世界タイトルを佐藤有香が獲得し、日本が本格的に世界の仲間入りを果たしていきます。特に日本のレベルアップを印象づけたのが、2002年から2003年にかけてのシーズンではないでしょうか。2002年のソルトレイクシティ冬季五輪で4位入賞の本田武史が1ヵ月後に長野で行われた世界選手権で3位入賞を果たし、1977年の佐野稔以来、男子では25年ぶりのメダルを手にしたほか、当時17歳の中野友加里がグランプリシリーズ・アメリカ大会で3回転アクセルを跳び、同じく14歳だった安藤美姫が女子選手として初めて公式戦で4回転ジャンプに成功。さらに、12歳の浅田真央が特例で出場した全日本選手権で、3回連続で3回転ジャンプを決めて注目を集めました。
2004年のドルトムント世界選手権では荒川静香が10年ぶりに日本に金メダルをもたらし、2006年のトリノ冬季五輪ではアジア人初の金メダル獲得。安藤美姫や浅田真央、髙橋大輔らも世界を舞台に最高の演技を見せ、特に2010年の世界選手権では髙橋、浅田の2人が表彰台の頂点に立つ快挙を成し遂げました(髙橋は日本人男子初のチャンピオン)。そして現在にも続く空前のフィギュアブームを牽引しているのが羽生結弦。2014年のソチ冬季五輪で日本男子史上初の金メダルを獲得し、2018年の平昌冬季五輪でも金メダルを獲得。五輪2連覇は世界的にも66年ぶりの快挙。日本勢の快進撃はとどまるところを知りません!
海外メディアからは「日本でもっとも人気のあるスポーツ」といわれるほど老若男女を魅了するフィギュアスケート。次ページではこのスポーツにまつわるトリビアもご紹介します。