新年度が近づき、1年でもっとも引っ越しが多く身近になる季節にちなみ、今回の「Trace」では引っ越しの変遷について迫ってみました。トラックや段ボールも生まれていない時代、人々はどんな引っ越しをしていたのでしょう?

引っ越しのルーツは「引っ越し」という言葉の由来にヒントがあるようです。そもそもこの言葉が生まれたのは江戸時代のこと。庶民のあいだで住まいを変えることを指す言葉として使われるようになったといいます。それ以前、引っ越しにあたる言葉として使われていたのは「引き越え」。一説には飛鳥時代から、身分が上がった貴族や役人が大きな屋敷に移動することを、そう呼んでいたそうです。家財道具などをパンパンに載せた荷車を一生懸命引っ張って、山や川を越えていたのかもしれませんね。

「宿替え」という上方落語の演目があるように、引っ越しのかわりに宿替えという言葉も使われていた江戸時代。当時の庶民の引っ越しはトラックも引っ越しサービスもありませんから、荷車を使って人力で荷物を運ぶのが当たり前でした。
ただ、現在の引っ越し事情と異なることも。たとえば大坂では、物件となる長屋の室内は借主の店子(たなこ)が畳や障子、かまど、流しなどもすべて用意する「裸貸し」という賃貸システムが発達していたため、借主は入居時に古道具屋で家財を調達し、引っ越す際には売り払うことも多かったそう。ふとんなど家財道具をレンタルしてくれる損料屋を利用すれば、必要な期間だけ借りることも容易だったため、大荷物を運び出すことも少なく、想像するより引っ越しは手軽だったようです。
一方、大変なのが大名たち。特に江戸時代前期から中期にかけては、大名がほかの領地に移される国替え、転封がよく行われていました。石高が増え、新たな領地があてがわれることもあれば、懲罰的に石高が減らされることもある転封は、すべての藩士とその家族が総出で移動しなければならず、多大な費用がかかる一大事。そんな転封を生涯に7度も命じられた大名として、“引っ越し大名”の異名をとったのが松平直矩(なおのり)です。現在の福井県、大野藩の藩主・直基の長男として生まれ、2年後に山形藩への国替えを経験して以降、54年の生涯を終えるまで7度も国替えを命じられた直矩。彼の治める藩は度重なる引っ越しのため、常に借金苦に悩まされていたとも……。

昭和になっても、自動車が一般的に普及するまでの引っ越しは、転居先が近場なら荷車で何度も往復して家財道具を運び、遠方の場合は荷札をつけた荷物を貨物列車で最寄り駅まで輸送し、そこから目的地まで人力や牛馬車で運ぶことが珍しくなかったそう。
自動車が普及した戦後、高度成長期になるとサラリーマンの転勤も増えて移動距離が長くなったことから、本業の片手間に引っ越しを行う運送業者が増加します。ただし、引っ越しが専門ではないため、荷造りからトラックへの荷物の積み卸し、荷ほどきまで、車の運転以外はほとんどが依頼者の仕事。引っ越しとなると家族や友人、ご近所さんも総出で行っていたようです。また、移動中に家具が傷ついたりお皿が割れたりしても、運送業者は我関せず。荷物を積むトラックも荷台に載せた家財をヒモで固定するか、せいぜい幌をかけて運ぶ程度で、雨風が強いときなどは荷物が濡れてしまうこともあったとか……。

引っ越し専門の業者が誕生したのは、第一次オイルショックが起きた1970年代前半のこと。世界経済の混乱と原油価格の高騰で、中小規模の運送業者の経営状況が悪化し、1974年には引っ越しを専門とする全国引越専門協同組合連合会が設立されました。このころから引っ越し専門を謳う業者が各地で生まれ、依頼者の負担を軽減するサービスも充実。トラックのコンテナに荷物を積んで運ぶという、今では当たり前のサービスが登場し、荷崩れや雨に濡れる心配がなく、プライバシーが守られるという点でも評判を呼んだそうです。
専門業者の普及にともない、家財道具を運ぶ間に害虫退治をするサービスや、転居先での家財道具の整理・整頓を行うサービス、引っ越し当日に新しい家電を設置するサービスなど、さまざまなアイデアが登場しました。特に運送業として始まり、1976年から本格的に引っ越し業に進出したアート引越センターは、業界に先駆けるサービスを数々発案したアイデア企業。1980年代には、家財道具と一緒に家族も1台の車で輸送してしまう客室付きの引っ越し専用車や、自家用車の輸送も家財道具と一緒に行える専用車も開発しているんです。
引っ越しにまつわるサービスがほぼ登場したと言っても過言ではない今、各社はいかにお得にサービスを提供できるかに知恵を絞りながらも、引っ越しを機に家具の地震対策サービスを行うなど、利用者のニーズをしっかり汲み取る“生活サポート業”としても活躍しています。さて、次ページでは引っ越しにまつわるトリビアもご紹介!