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華麗なるエアライン

1903年12月17日、アメリカのライト兄弟が、グライダーにガソリンエンジンとプロペラを取り付けた「フライヤー1号」で59秒間、260メートルを飛び、飛行機時代の幕が開きました。それから11年後の1914年、世界初の定期旅客輸送便が就航します。今回の「Trace」はそんな旅客機=エアラインの歴史にフォーカスを当ててみます。まずは世界初のエアラインのお話から!

世界初のエアラインは約20分間で1万ドル!!

 世界初のエアラインは1914年1月1日、アメリカ・フロリダ州タンパ湾で、タンパと対岸のセントピーターズバーグ間の35kmを飛行艇で1日2往復運航したセントピーターズバーグ・タンパ・エアポート・ライン社とされています。
 記念すべき最初の乗客は、セントピーターズバーグの元市長。22分間のフライトのチケットは400ドルで、今のお金に換算すると1万ドル(約100万円)ほどの価値にもなるんです。
 なぜこれほどまで高額だったのか、その理由は「我こそは!」と初便に乗りたい人が殺到して、5ドルだった運賃がプレミア化してしまったから。しかし、当初の人気はどこへやら、乗客1人という採算性のなさや、湖上を滑走する際に水しぶきを浴びることで敬遠されてしまい、同社は半年も経たずに運航を止めてしまいました。

シラフでは乗りこめない!?

 飛行機技術が進化する契機となった第一次世界大戦。終戦後は、戦中に開発された偵察機や爆撃機を改造して、郵便貨物や旅客の輸送が始められました。
 特にドイツは、地上の鉄道や道路がほぼ破壊されてしまったことで、いち早く偵察機を改造して定期旅客便の運航(ベルリン〜ワイマール間)をスタート。それに続き、フランスやイギリスでも爆撃機を改造した旅客機がつくられ、1919年8月にロンドン〜パリ間で運航を始めたエアクラフト・トランスポート&トラベル社は、世界初の国際定期旅客便といわれているんです。
 ただし、当時の旅客機は今と違い、コクピットは風防が前面についているだけのオープンタイプが主流。乗客は「何事があっても文句を言わない」と誓約した上で狭いキャビンに乗り込んでいたそう。なかには搭乗前にワインを飲み、気分を落ち着けてから乗る人もいて、黎明期の空の旅は楽なものではなかったようです。

特急料金の数十倍!空の旅はまだまだ高嶺の花

 現在、日本国内で定期旅客便を運航するエアラインは20社以上、日本に乗り入れている外国のエアラインは60以上に上り、世界では700社を超えるといわれています。そんなエアライン界に現存する最古参が、1919年に設立されたKLMオランダ航空です。設立翌年にアムステルダム〜ロンドン間の運航を始めたKLMは、1929年にはインドネシア路線を開設してヨーロッパとアジアをいち早くつなぎ、その後も太平洋路線、カリブ海路線と拡大していきました。
 日本でも1920年代には定期旅客便が始まり、東京〜静岡間で運航していた東京航空輸送社は、国内で初めて女性客室乗務員を乗務させたエアライン(次ページ参照)。また、当時から満州(現中国東北部)や台湾、南洋諸島を結ぶ路線も運航されていました。
 とはいえ、運賃はまだまだ高く、大日本航空が運航していた横浜〜サイパン〜パラオ間の飛行艇は、サイパンまでが片道235円、パラオまでが375円。東京~大阪間の超特急の3等車が特急料金込みで8円だった時代ですから、庶民でも気軽に利用できる現在のエアラインとは大違いですね。

戦後設立された国内二大エアライン

 太平洋戦争に敗れた日本は、GHQにより飛行機の開発が禁止され、エアラインの設立も認められませんでした。日本の定期旅客便が本格的に再開されるのは1951年のこと。日本航空がノースウエスト航空(現デルタ航空)に委託するかたちで、定員40人のマーチン202で東京〜大阪〜福岡間の運航を始めます。会社員の初任給が1万円前後の時代に、運賃は東京〜大阪間が片道6000円、東京〜福岡間は1万1520円だったといいます。日本航空設立の翌年には、全日本空輸の母体となる日本ヘリコプター輸送も設立され、1954年には日本航空が東京〜サンフランシスコ間の国際旅客定期便も開設します。

ジャンボジェットで地球が狭くなった

 誰もが気軽にエアラインを利用できるようになるには、プロペラ機からジェット機への移行が欠かせませんでした。1952年、イギリスのデハビランド社が開発したジェット機・コメットMk.Iがロンドン〜ヨハネスブルグ間で就航し、より高速な輸送が実現したのです。
 コメットMk.Iは大規模な事故が続いたため1954年に退役しますが、アメリカからは130人乗りのボーイング707やダグラスDC-8などが登場し、本格的な“ジェット時代”が到来します。国際会議やシンポジウム、スポーツイベントなどが世界各地で開かれるようになったのは、エアラインの発展のおかげといっても過言ではないでしょう。
 そして1969年、ボーイング747、通称「ジャンボジェット」が初飛行に成功し、翌年にはパンアメリカン航空のニューヨーク〜ロンドン間で運航を始めます。同機はそれまでの旅客機の胴体直径を2倍近い大きさに広げたワイドボディ機で、従来の国際線が200人程度の乗客数だったのに対し、500人近い乗客数を確保でき、エアラインは高速かつ大量輸送の時代に突入。ほかの航空機メーカーも、ダグラスDC-10、エアバスA300といったワイドボディ機を投入し、庶民の間でも海外旅行が一気に身近なものになりました。今では当たり前のディスカウントチケットも、ワイドボディ機なくして実現しなかったのです。
 ちなみに、「ジャンボジェット」というニックネームについて、ボーイング社は“鈍重なイメージに通じる”と嫌っていたのだそう。同社は「スーパージェット」という愛称を広めようとしましたが、すでに「ジャンボジェット」が定着してしまっていたため、受け入れられることはなかったとか……。

初の国産ジェット機も就航間近

 かつて、日本は世界が注目する航空大国でした。国内初の本格的な国産旅客機は、1936年に中島飛行機が開発した中島AT-2で、日本航空輸送や大日本航空など、黎明期の国内エアラインで運航されていました。
 1940年には三菱重工業から三菱MC-20も登場し、広く活躍していたものの、前述の通り敗戦によって飛行機開発が禁止されると、戦後初の国産旅客機であるYS11(日本航空機製造)が登場するまでに長い年月がかかります。
 現在は国産初のジェット機となるMRJ(三菱航空機)の開発が進められています。MRJは客席数が50から100席ほどの小型のジェット機=リージョナルジェットで、細分化されている現代のエアラインには欠かせない存在。2020年の導入が楽しみですね。

LCCの誕生は意外に古い?

 近年はLCC(Low Cost Carrier/格安航空会社)の浸透で、空の旅がより身近なものになりました。LCCの歴史は意外にも古く、1970年代にアメリカのサウスウエスト航空が、大手エアラインとの差別化を図るため、提供するサービスを最小限にしてコスト削減、低運賃を実現したことから始まります。
 このビジネスモデルは世界に拡大し、1980年代から90年代には、アイルランドのライアンエアー、イギリスのイージージェット、そしてアジア最大のLCCとなるマレーシアのエアアジア(当時はTune Air)といったLCCが誕生。2000年代に入ると、シンガポールのタイガーエアウェイズ、タイのノックエア、オーストラリアのジェットスターなども勢力を伸ばし、大手エアラインによるLCCの子会社化、系列化なども進められるようになりました。
 日本でも航空自由化を受けて1998年にスカイマークが運航を始め、格安運賃で大手エアラインに対抗。2012年には国内初のLCCとなるピーチ・アビエーションも就航し、国内外でLCCのシェアは拡大し続けています。


1万ドルからスタートしたエアラインも、今ではLCCのおかげで、数千円で海外に行けることも珍しくなくなりました。次のページでは、エアラインに抱く素朴な疑問も解消してみます!

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