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奥深きスーツの世界

みなさんはスーツを何着持っていますか? 「Trace」の男性読者に「持っているスーツの数」を尋ねたところ、半数以上の54.7%が「1〜3着」と回答。次いで30%の「4〜6着」が多い結果となりました。ひと昔前まで「男の戦闘服」といわれていたスーツは、ビジネスパーソンだけでなく、就職活動中の学生が着る“制服”として、またフォーマルな場での正装としても社会に定着しています。一体いつからスーツは人々に着られるようになったのか。今回はスーツのルーツを掘り下げていきます。

上下同じ布地のスーツは卑俗!?

 現代のスーツの原型は、19世紀後半にイギリスで登場した「ラウンジ・スーツ」といわれています。当時、上流階級の男性の正装は、日中はフロックコート、夜はイブニングコートでしたが、ラウンジルームのソファでくつろぐときに長い丈が邪魔になるため、丈が短くゆったりとしたラウンジ専用のジャケットがつくられました。
 このジャケット(ラウンジ・ジャケット)は、自宅でくつろぐときやごく親しい人と会うときのカジュアルウェアとしても着られるようになり、ゆとりを持ったズボンや、上下が同じ布地のラウンジ・スーツもつくられるようになります。
 いまでこそ、スーツといえば上下に同じ布地を使った“ひと揃えの服”という認識が一般的ですが、当時は上着とズボンは別の布地で仕立てるのがスタンダードで、正装とされていた時代。そのため、上下同布地のラウンジ・スーツはあくまでカジュアルな服装で、会社や教会など公の場に行くときの服装や晴れ着としてはふさわしくない“卑俗なもの”と思われていたとか……。
 とはいえ、農民や労働者など一般大衆の間では、三つ揃いのラウンジ・スーツが晴れ着として愛用されるようになり、20世紀に入ると、さまざまな場面で着用できるフォーマルな服装として、仕事や身分を問わず普及します。

倹約の精神から生まれたスーツの“着こなし”

 上で触れた通り、現代のスーツの原型はラウンジ・スーツですが、「ジャケット+ズボン+ベスト+シャツ+タイ」という三つ揃えスーツの“着こなし方”は、それ以前から当たり前だったといいます。スーツの源流ともいえるこのスタイル、一体いつ生まれたのでしょう?
 ラウンジ・スーツの登場からさかのぼること約200年。1666年10月7日、イギリス国王で服好きだったチャールズ二世は、「余は新しい衣装一式を採用することにした。この衣装は、もう変えることはない」という宣言をしました。当時の男性の服装といえば、シャツの上に、着丈が短くぴったりとしたダブレットと呼ばれる上着を着て、半ズボン状のホウズを履く「ダブレット+シャツ+ホウズ」が基本。頭からつま先まで、巨大なレース飾りやリボンをあしらったり刺繍を入れたりと、女性よりも華やかに着飾っていたといいます。
 しかし、1665年にペストが流行、翌年にはロンドンで大火災が起き、中心部・シティの5分の4が焼失。すると、庶民は災難の元凶を、贅沢をしている宮廷への天罰と噂するようになり、チャールズ二世は民衆の不満を抑えるため、貴族に倹約を教える上記の“衣服改革宣言”を出したのです。
 チャールズ二世の宣言により、シャツの上に丈の長い袖付きの服とコートを着用し、ブリーチズ(半ズボン)を合わせる着こなしが広まりました。この“丈の長い袖付きの服”とは、現代でいうところのベスト。つまり、コートを羽織ると見えなくなる袖と背中は装飾のない安価な生地にして、見えるところだけにお金をかけようという教えだったのです。それを倹約と呼んでいいものか、現代の感覚からすると疑問符がつく部分があるものの、ともかく「コート(上着)+ズボン+ベスト+シャツ+タイ」という、現在のスーツにつながる着こなしが生まれたのです。

上着の袖ボタンや胸ポケットのルーツは?

 スーツにまつわる小物についても、さまざまなエピソードがあります。例えば、スーツの上着の袖口に付いているボタン。袖口にボタンが付いたきっかけは、フランスの皇帝ナポレオンが、袖口で鼻水をすする兵士の姿をみすぼらしく思い、袖で拭えないようにボタンを付けた、なんて話もあるんです。

シャツの襟だけ外して洗濯

 スーツの下に合わせるシャツは、現在では襟(カラー)の取り外しができないものが一般的。しかし、19世紀から20世紀初頭までは、襟部分とシャツ本体は別々につくられることが普通だったそう。アメリカ・ニューヨーク州のトロイという街で、職人の主人を持つ主婦が洗濯の量を減らせないかと、汚れがひどい襟部分だけを切り取って洗い、洗濯する必要のない(汚れがない)シャツの本体に縫い付けたことをきっかけに、襟が取り外せるデタッチャブルカラーのシャツが誕生。さまざまな色のシャツに襟を取り付けて着こなしを楽しめたことから、現在のように襟とシャツ本体のカラーが異なる「クレリックシャツ」も生まれたといいます。


ハンカチは袖口から胸ポケットへ

 スーツの上着の胸部分にあるポケットは、20世紀に入ってから定着するようになったデザイン。なぜ胸ポケットが登場したのかといえば、“袖口”にハンカチをしまう習慣のあったイギリスで、袖口からハンカチが落ちることを防ぐためにポケットを設けたという説があるんです。いまや胸ポケットに挿すポケットチーフはドレスアップアイテムですが、昔はもっと実用的だったのかも?


クロアチア人がルーツのネクタイ

 一説では、クロアチアの人々の襟飾りがルーツだというネクタイ。私たちが一番見慣れている帯状の「ダービータイ」は、19世紀後半にイギリスのアスコット競馬場に集まる紳士たちから広まったといいますが、そのタイの基本的な結び方である「プレーンノット」は、4頭立ての馬車を操る御者(運転手)が使っていた形だったことから、御者の別名である「4 in hand(フォーインハンド)」とも呼ばれているとか。ちなみに、ネクタイの結び方が何種類あるかといえば、85種類とも、理論的にはなんと17万通りあるともいわれているんです!

文明開化とともに和装から洋装へ

 スーツのルーツを足早に振り返ったところで、ここからは日本におけるスーツの変遷を見ていきましょう。和装だった日本人が洋装を始めたのは、幕末から明治時代にかけてのこと。16世紀頃には南蛮服が一部の大名の間で流行し、江戸時代にはオランダ人の紅毛服が出島やその周辺で働く人々に取り入れられていたようですが、幕末に軍備の近代化を図った江戸幕府が、西洋の軍服を取り入れたのが洋装の本格的な始まりとされています。1871(明治4)年にはいわゆる洋装令が出され、一般大衆にも徐々に浸透、大正時代になるとスーツも普及しました。

なぜ「背広」と呼ぶの?

 日本では「スーツ」のことを「背広」とも呼びますが、この言葉のルーツをご存じですか? 諸説ある中でもっとも有名なのが、名だたる老舗テーラーが並ぶロンドンの通り「Savile Row」の発音(サビル・ロウ)から派生したというもの。イギリス帰りの紳士がどこで服をつくったかと聞かれ、その通りの名を口にしたことから「セビロ(背広)」と呼ばれるようになったとか。


「背広」の語源については、軍服に対して市民の服という意味の「Civil Coat」の「Civil(シビル)」が訛ったという説や、モーニングより「背」の布の幅が「広く」、ゆったりしたつくりだからという説もあるようです。次ページでも日本のスーツの変遷をご紹介します。

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