回転寿司の世界

食のアミューズメントパーク!回転寿司の世界

いまや、子どもからお年寄りまで大人気の「回転寿司」。休日になれば行列ができているお店も多く、全国各地で賑わっている光景を見ることができます。みんなが大好きな回転寿司ですが、一体どのようにして、ここまでの支持を得るようになったのでしょうか? 今回は回転寿司専門家の米川伸生さんに、回転寿司にまつわる歴史とトリビアを聞きました。

1958年 苦節10年!寿司を運ぶベルトコンベア開発秘話

回転寿司の誕生は、お寿司を運ぶベルトコンベア開発の歴史に重なります。これを開発したのが、大阪で立ち食い寿司店を営んでいた白石義明さん。当時、白石さんのお店は安くて質のいいお寿司で大人気でした。しかし、人が来れば来るほど、職人を増やさないといけない状態…。経費がかさみ、どうにか効率的な経営ができないものかと考えていました。
そんな時に出会ったのが、ビール工場のベルトコンベア。「お寿司を回転させれば、運ぶ手間がかからない!」と思いつき、すぐさま開発に取りかかったものの、どうしてもカーブの部分で寿司が止まってしまい、うまく運べませんでした。試行錯誤すること10年! 白石さんは名刺が扇形に並んでいる様子を見て、コーナーを扇形にすることを思いつき、半月形のコーナー「三日月型鉄板」を完成させます。こうして、1958年に日本初の回転寿司店「廻る元禄寿司1号店」がオープンすることになりました。

1968年 元禄寿司が全盛!勢いに乗って、東日本にも進出

大阪市にできた「廻る元禄寿司」は、多いに話題を集めました。白石さんは開発の際にベルトコンベアの特許「コンベア旋回式食事台」を取得していたため、他からの参入もなく回転寿司市場は「元禄寿司」の独占状態となりました。当初は関西を中心にして広まっていきましたが、1968年にはこのシステムが東日本に進出することになります。そのきっかけとなったのが、仙台市で屋台寿司店を営んでいた江川金鐘さん。江川さんは、白石さんとは別で、中華テーブルをヒントに回転寿司のシステムを編み出していました。しかし、すでに特許を取得されていたため、実用化ができず、販売契約という形を取ることになったのです。これによって、東日本、西日本で「元禄寿司」が広がっていきました。この「回転寿司=元禄寿司」という状況は、特許の切れる1978年まで続いたそうです。

1968年 大阪万博で知名度UP!近未来感が大ウケ!

関西を中心に知名度を上げていた元禄寿司ですが、その名が全国に知れる大きなきっかけが1968年の「大阪万博」でした。元禄寿司は、万博会場の西側入り口に出店。システムの物珍しさから、日本人だけでなく、外国人からも注目を集めました。この時、出店していたのはマクドナルド、ミスタードーナツなどの有名外食企業。その中でも、元禄寿司は「電気自動車」や「動く歩道」などの近未来的な展示物同様、未来を予感させる存在として、一躍脚光を浴びたのです。万博後は元禄寿司に、マスコミや事業者などから問い合わせが殺到したといいます。

1978年 ベルトコンベアの特許失効!回転寿司群雄割拠時代

1978年になると白石さんが取得していた「コンベア旋回式食事台」の特許権が失効となり、それをきっかけに多くの会社が回転寿司に参入しました。1979年の「かっぱ寿司」、1984年の「回転寿司くら(現・くら寿司)」、「すし太郎(現・あきんどのスシロー)」、1987年の「がってん寿司」など、今人気のお店もこの時期に登場しました。全国で店舗が爆発的に増えたことによって、寿司職人が不足する事態が発生。打開策として、各社が「寿司ロボット」を導入するなど、自動化を押し進め、この問題に対処していました。

今でこそ、幅広い価格帯がある「回転寿司」ですが「安い」というイメージを持っている人が大半ではないでしょうか。これは、もともと「元禄寿司」が一皿100円の値段設定をしていたため。現在のように価格に幅が出てきたのは、1983年以降に郊外型の大型店舗が増えていった時期のことです。次第に150円、200円などとバリエーションが増えていきました。しかし、80年代後半のバブル期に入ると、人々は高級寿司店に訪れるようになり、徐々に回転寿司離れが進んでいきました。

1990年 バブル崩壊とともに回転寿司業界復活!

バブル崩壊とともに、日本経済の勢いは一気に失速。となると強いのが、安く楽しめる回転寿司です。とはいえ、この時期になるとただ安いだけではない「グルメ回転寿司」が台頭してきます。これまで「安さ」という側面が際立っていた回転寿司に対して、「美味しさ」を売りにしたお店が続々と登場。味はもちろん、その日に仕入れた鮮魚や活魚を目の前で捌くパフォーマンス重視のお店に人々が集まるようになりました。
拍車をかけるように「デカネタブーム」が到来。これまで12〜15グラムだったネタが20グラムを超え、一皿数百円の寿司も当たり前になりました。1995年の「ジャンボおしどり寿司(神奈川県中心)」や1997年の「海鮮三崎港(関東中心)」などを筆頭に、回転寿司が「華やかで、美味しい」イメージに変わっていったのです。

2000年~ 回転寿司の二極化が顕著に一皿100円or1000円!?

2000年代になると、郊外型で100円寿司を売りにした「大手100円均一回転寿司」と、一皿数百円〜の寿司を提供する「グルメ回転寿司」の二極化が進んでいきます。100円寿司はターゲットをファミリー層にして、ボックス席を増やし、子どもが楽しめるような仕掛けを多数作っているのが特徴。一方、グルメ回転寿司では、寿司の質を追い求めるようになります。一例として京都の高級料亭「菊乃井」プロデュースの店舗や、「オテル・ドゥ・ミクニ」のオーナーシェフ・三國清三氏がプロデュースしたお店などの有名シェフが手がける店が出てきました(現在は2店とも閉店)。食材はもちろん、内装や装飾品、BGMにもこだわり高級感を演出。回転寿司にも関わらず大間のマグロ一貫を1500円で提供するお店もあったほどです。もはや、そのクオリティは回らない寿司店と比べても、何ら遜色はありませんでした。

2008年~ 大手100円寿司チェーン独走!2014年以降の気になる潮流とは?

2008年に起こったリーマンショック以降、回転寿司業界では大手100円寿司チェーンの台頭が目立ちました。特に、味に定評のある「あきんどスシロー」、安さの「かっぱ寿司(現在は元気寿司の傘下に)」、エンタメの「くら寿司」の勢いは凄まじく、売上での市場シェアは三社だけで55%(2010年決算ベース)となっています。これらの業態は、ロードサイド店舗が多く、一つひとつの店舗の規模が大きいのも特徴です。ただし、2014年現在、100円寿司の勢いは衰え気味であり、代わりに下記のような流れが起こりつつあります。

2014年以降の新たな動き

100円寿司の手軽さながら、グルメ系回転寿司のクオリティを実現した店舗仕入れやシステム化の発展によって夢のような業態が実現。「魚卸回転寿司 ダイマル水産」や「回転寿司 まきのすけ本店」などが筆頭。

グルメ系回転寿司では、「地産地消」をテーマに、地元の食材やそこでしか獲れない魚を使ったお寿司を出すお店が増加。観光客がご当地寿司を目当てに訪れることも。「炎の回転寿司 武蔵丸」、「沼津魚がし鮨」などが挙げられる。

回転寿司の進化を支えるシステムの進歩!

回転寿司の進化を語るのにIT化を抜きにしては語れません。今、回転寿司に行くと「特急レーン」や「自動皿カウント」、「タッチパネル」に「水回収システム」などと、他の外食業態ではお目にかかれないシステムが盛りだくさん。これは一重に、「いかにお客様に来てもらい、楽しんでもらうか?」という視点に注力してきた証。そして、ビジネスの仕組み上人件費をかけられない状況が生み出したものでもあります。現在では一層ハイテク化が進み、その進歩は現在も続いています。

皿の裏側にICチップを付け、商品を管理。リアルタイムの売れ筋状況を把握して、今流すべきネタをコンピュータが指示。さらにPOS システムにより、来店者の滞在時間によって流すネタを変える。

食べ終わったお皿を積み上げるのではなく、目の前のカウンターで回収するシステム。皿数はデジタル表示され、清算もスムーズ。さらに、5皿ごとにゲームがはじまり、当たれば景品をもらえる。

店内にあるのは注文専用のレーンのみ。タッチパネルで注文した商品が素早く届くという特急レーンの応用型で、客が注文した商品しかレーンを流れない、いわば「回らない回転寿司」。ロス廃棄率0を実現する、最新システムです。

「お寿司をもっと気軽に、楽しく食べてもらいたい」という想いで進化を遂げてきた回転寿司。システム化など、他の外食産業にはない独自の発展を遂げた後、多くの人々に親しまれるまでになりました。次のページでは、その過程にある様々なエピソードをご紹介します。

PageTop